不気味の谷に面して

 もう一度、前記事の終わり近くに引用した言葉から、はじめます。

美しい将棋は強い将棋と同義か、と尋ねると、彼は決然と「将棋に美しさを感じていない人は将棋には勝てない」と言った。

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 ややメタな表現をすると、巨瀬さんの投了を強く「美しい」と感じ、そう発言する傾向は、かなり将棋の強い層ほど高くなるのではないかと思っています。そしてそれは、(去年の話になってしまいますが)森下さんの「継ぎ盤」(対局用とは別に検討に使うための盤)使用可ルール提案を聞いた瞬間に「それは将棋ではない!」と反応した層と、それなりに重なるのではないかと。

 つまり、将棋に美しさを感じるほどに、明文化されたルールではない将棋感覚のすみずみまでが皮膚に染み込むほど、将棋を真剣にプレイし、強くなった人たちが、その層だろうと想像するからです。

 私はかなり将棋(とそのファン)を鑑賞経験を積んでいるつもりですが、そういった方たちの「これが将棋だ」「これは将棋じゃない」という感覚は、まったく共感的な理解はできません。観測経験から、そういうものがあるのだろうな、と想像するだけです。

 そう考えると、あの投了に共感できない「一般の人」がいる、ということも、理解できなくもないのです。きれいに編集されたPVのストーリーで「将棋に多く のものを賭けた人なんだろうな」と理解し感動することは簡単でも、勝ち負け以外の「何かよくわからないもの」の価値って想像しにくいものですよ……。

 少し経ってしまうと、巨瀬さんは(その意図があったとは思いませんが)あの投了によって、「あの局面からプロ棋士が負ける」という人間の棋士にとってはお そらく最悪の不名誉からプロ棋士を救った側面もある気がしてしまいます。実際、事前練習では類似局面(おそらく本番ほど決定的に有利なわけではない方向の類似局面でしょうが)から複数回逆転負けしているという話ですし。

 

 さて。ようやくそろそろ、本題です。
 将棋界は最近(渡辺さんとBonanzaが対局してから、まだ十年経っていません)やっとほんもののコンピューターを脅威として認識しましたが、この世界ではずっと昔から、「コンピューターのような」という形容が使われてきました。「天才」と同じくありふれた棋士の形容として。

 だいたい、私たちがこの言葉ですぐ想像するような、電源式のコンピューターが一般に知られるようになったのは第二次世界大戦の時代で、今年は戦後七十年なのですから、新しいようでなかなか古い言葉なのです。

 一般的な用法がそうであるように、将棋界での「コンピューター」という形容も、基本的に若くて頭がよくて、しかしどこか期待される常識的な人間らしさに欠 けたところがある、というニュアンスを持って使われているように見えます。時代ごとに、新しい棋士が「コンピューター」世代と言われてきました。

 何度も繰り返し、「コンピューターの如き」常識と将棋の美の感覚に欠けた若者たちが「棋士」になり、いつの間にか違和感なく「ふつうの棋士」になっていった。とても大雑把に要約すれば、それがこの数十年の将棋の歴史だといってもいいくらいに思えるほどです。

 

 その「違和感のある新しいもの」の最大の波が、いわゆる「羽生世代」です。彼らはプロ将棋界に登場したころ、「恐ろしい子どもたち」とか「チャイルドブラ ンド」と(コンピューターよりは独自性のある)形容をされたくらい、異質な、その頃の将棋の常識や美とかけ離れた存在でした。

 現在の私たちからすると、その違和感はなかなか理解しにくいのですが、当時の観戦記や創作作品を読むと、非常に大きな衝撃、一部の層にとっては生理的に受け入れがたいほどの違和感があったのだと想像するしかありません。

 将棋を題材にしたコミックの古典的名作『月下の棋士』、あの主人公が羽生さんをモデルにしていることはよく知られていますが、今はじめて読む人は「ぜんぜん似て ないじゃん」としか思わないのではないでしょうか。ほかの実在棋士をモデルにした登場人物は今読んでもちゃんと似て見えるのが不思議なくらいに。

 もちろん、当時のコミックの主人公として受け入れられるキャラクター造形といった事情はありますが、当時の彼は、あの主人公を作家に想像させ描かせてしまうくらいに、衝撃的で挑発的な存在に見えたのでしょう。

 もちろん羽生世代が現れる前から、変化の傾向ははっきりあったわけですが、この世代以降、将棋のプロというのは「博打打ちの如き勝負士」ではなく「研究 者」、ある種の「求道者」である、というイメージが一般的になりました。集団での研究はこの時代にはじまり、研究内容はよりオープンになりました。

 当時彼らの、一つのゲームの勝敗の外では遺恨や対立関係を持たない態度は、そういうどろどろした人間くさい勝負こそが、勝負と観戦の楽しみだととらえる人たちからはずいぶん否定的に見られましたが、今では当たり前の礼儀正しさと見られることのほうが多いように思いいます。

 今となっては、彼らこそが将棋の、あるべき美、規範そのものになってしまっています。

 いつの間に、そんなことになってしまったのでしょう。もちろん彼らの 周囲で将棋界だけが変わったのではなく、彼らもまた変わりました。違和感なく和服が似合うようになり、あまり角のある言葉は言わなくなりました。

「チャイルドブランド」から「安心して見られる将棋を指す落ち着いた人たち」への変化。その間、将棋界の周囲で一般社会も変化し、見る側の社会と世代もまた変わっているのですから、当然というべき なのかもしれません。

「恐るべき子どもたち」さえも、「将棋」というものに呑み込まれ、消化されたのだ、と考えることも可能かもしれません。

 

 そういうことをぼんやり考えるとき、これは正しい用法ではないでしょうが、将棋界はかつて少なくとも一度「不気味の谷*1を渡ったことがある、と考えること もできるのではないか。と私などは思ってしまうのです。

 もちろん、ほんものの人間とコンピューターの差は、もっと大きく、決定的なものなのかもしれませんが。

美しさと強さが対立するとき。あるいは、水平線のこちらに現れたもの

 電王戦のルール、ルールに則って戦うこと、そして今年は何度も聞くことになった、私も何度か言及して来た、ゲームにおける美しさ、ということについて。

 電王戦が団体戦として形を整える中で二年めに固まった、実戦と同じプログラムを事前に提出し、プロ棋士側が一方的にそれで研究する一方、プログラム開発者側は一切改良することができない、というルールは、当初から非常にプロ棋士側有利な規定、と見られて来ました。これで勝てないはずがない。とも。

 一年めについていえば、事前貸し出しは任意のもので「勝負だから」と断った開発者もいましたし、そのプログラムと対局する棋士は、他のプログラムを借りて練習環境としたようです。非人間との対局経験がほとんどない棋士にとってはそれでも役に立つだろう、ということで、今から見ればゆるい世界です。

 しかし、一年め二年め、棋士側で勝つことができたのはそれぞれ一人だけでした。そして勝ったのはどちらも、貸し出されたプログラムを他の棋士数倍~十倍以上の対局数・時間を費やして研究し、その能力や癖をよく掴んだ、むちゃくちゃに研究熱心な若手の棋士でした。

 貸し出しを受けても、それほどプログラムとの研究に時間を使わなかった棋士もいて、それはそもそもコンピューターとの対戦に向いた人選ではなかったのではないか、あるいはせっかく有利に利用できるはずのルール上のアドバンテージをまったく活かしていないではないか、という批判がありました。

 そういった過程を経て、今年プロ棋士側から選ばれたのは、全員コンピューターにアレルギーがない程度に若く、充分な勝率があって、戦術研究に向いていると思われた人たちだけになりました。前回までとは違い、対局予定者以外の協力も含めた集団での研究もだいぶ行われたようです。

 今までそれをやらなかったほうがおかしいのでは、という意見もあるでしょうが、それまで棋士側ではそこまでコンピューターを「ほんとうに強い」相手として認識できていなかった、ということでしょう。それまでの連敗が、ようやくルールを万全に活かしてより多くの勝ちを狙う方向に向かわせたのです。

 しかし、そうやって真剣に研究してみたとき、将棋プログラムはおおかたの予想を超えて強くなってしまっていました。事前研究の様子はドキュメンタリー動画になっていますし、対局後のインタビューでもそれぞれ答えていますが、これだけのプレイヤーたちが、一割~二割くらいしか勝てなかったのです。

 ディープな将棋(棋士)ファンがもっとも衝撃を受けたのは、この辺ではないかと思います。この棋士たちが、現在最高レベルの人間のプレイヤー(シンボル的に羽生さん、と代入してもいいでしょう)を、一方的にここまで研究できたとして、勝率がこれほど低いと想像できるでしょうか?

 勝つ可能性を上げるには(参加した棋士はそれ以外の選択肢が意識できない心理状態だったでしょう)プログラムの得意でない局面に誘導する、という程度ではもう充分ではなく、そのプログラムが決定的な悪手を、高い再現度で指す形を発見するしかない、という雰囲気になるのも仕方なかったのでしょう。

 プログラム側も、そういった研究に負けることを避けるために、指し手にランダム性を持たせていますから、「本番でダイスを振ってどちらの目が出るか」でほとんど勝負が決まる、というようなことになりました。生放送中継では「どこまで研究手順」といった言葉が公然と連呼されました。

 この光景が将棋中継を見慣れたファンにとって不思議に思えるのはつまり、ふつうの(人間棋士どうしでの)対戦では「完全に事前研究の手順だけで勝敗が決まる」ことを、面白くない、軽蔑すべきことと見る傾向が一般にあるからです。頭でっかちな若者の指す、つまらない、美しくない将棋、と捕える(比較的昔からのファン層の)観戦者は多いようです。

 過去二年、一勝だったのに対して、今年は三勝二敗と勝った、と数字上はなります。しかしその数字は、プログラムがはるかに格上である、と認識した棋士側がルールを最大限活かした戦術を選んだ(本番一回限りのダイス目の)結果得たものであって、むしろプログラムの強さが強調されたように思います。

 さて。投了と美しさ、ということについてです。今年の第一局では、プログラム側が必敗の局面になっても投了しない、ということについてずいぶん批判があったようです。中継でそういった指摘が強調されて映ったためにそう見えた、というだけかもしれませんが。

 もともと、人間対コンピューターの対局では、一方的な展開になりやすく、いわゆる白熱した戦いや、人間が名局と認識するような棋譜が生まれにくい、と言われています。

 人間よりも相対的にミスが少ないプログラムは、お互いに拮抗した局面を長引かせず有利にしてしまう、ということもあります。

 また、コンピューター側が不利な局面になったとき、プログラムは決定的に不利な瞬間を先延ばしして計算範囲から見えなくする、しかしその瞬間を回避するためにはまったく役立たずにかえって事態を悪くするような手を選んでしまう欠点があります。いわゆる「水平線効果」です。水平線の向こうにあるものは見えない、というわけです。悪い未来を、計算可能な範囲に見えない水平線の向こう側に追いやってしまった手が、プログラム的には「より良い手」に見えてしまうことは、単なる一つ二つの悪手などよりはるかに改善が難しい問題のようです。

「粘っていれば、いつか逆転のチャンスがあるかもしれない局面」なのか「この方向で粘っても勝ち目はまったくないから、悪手の可能性があっても逆転できるかもしれない勝負手を指すほうがましな局面」かを判断する能力は、まだ人間のほうがはるかに高い、ということでもあります。

 そのため、将棋プログラムが負けるときはしばしば、だらだらと不利な局面をさらに不利にしながら引き伸ばすだけ引き伸ばし、人間的視点で見ればわざと美しくないログを生成して負ける、という展開になります。

 たしか、第一局のプログラム製作者の方は、そのような負け方がプログラムの特徴であるから、開発者はプログラムを無視して投了する権限があるけれども、投了せずに指しつづけさせる、と事前にオンライン上で表明し、対局相手の棋士にもそう断っていたはずです。しかしそれでも批判されました。

 いさぎよく投了することは将棋の美学である。といった言葉も聞かれたと思います。実際、人間どうしの対局では「形作り」といって、負けを自覚した側が、一手違いで勝てたような「整った局面」を作って投了する、という習慣もあります。

 現在のところ、「いさぎよく投了する」「美しい投了局面を作る」といった機能を開発された将棋プログラムは一般に知られていません。そんなことを考えても、まず強くなる役には立たないので、当然ともいえるでしょう。プログラムが対応しにくい分野ということで、開発者に投了の権利が与えられています。ちなみに、プログラムどうしの対局するコンピューター将棋選手権では開発者に投了権限はありません。

 投了は人間にしか理解できない美であるといっても、いつ投了するのが正しく、美しいか、さまざまな意見があり、結論の出ない議論があります。美はけっきょく、主観的なものだからです。「投了は最大の悪手である」という言葉も言われます。

 つい先日の名人戦第一局では、行方さんが名人戦最短記録の六十手で投了しました。局面は不利でしたが、決定的な負けの道筋はまだなく、一般論でいえば、まだ逆転の可能性が充分あるはずでした。作戦がことごとく裏目に出ていた、そして相手が羽生さんだった、という以外理由のない投了でしょう。

 この投了に対しては、「この程度でやる気をなくして投了しているようでは、勝てるものも勝てないのではないか」と内心思った人は多いでしょうが(口の悪さを競う掲示板のような環境では実際言われたかもしれませんが)、表立って非難されはしませんでした。いさぎよさを賞賛もされませんでしたが。

 そして今日、「AWAKE」の巨瀬さんは、21手で投了しました。「AWAKE」は指しつづけることができ、もしかしたら(一割かもっと低いとしても)逆転する可能性があったかもしれませんが、決定的悪手に誘導され、それを回避できなかった時点で、開発者の権限で投了したのです。

 巨瀬さんは元奨励会員(真剣にプロ棋士を目指して養成機関に在籍した人)です。事前にも、その点に注目が集まりました。(プログラムどうしの戦う)電王戦トーナメントで優勝したときのインタビューでは「将棋プログラムがプロの能力向上の役に立てばいい」という趣旨のことを聞いた記憶があります。

「ずいぶんきれいな言葉を使う、大人な対応の人だな」と思ったものでした。しかしそれは、ちっともそういう意味ではなかったのでしょう。

 プログラムにその決定的悪手を指させる筋は、各所の観測によれば過去に別の将棋プログラムへの対策研究として発生したものらしく、一般に公開された局面としては、いわゆる「百万円チャレンジ」の生放送企画で多くのアマチュアが使ってよく知られるようになりました。
 その企画や放送より早くから、今回AWAKEと対局した阿久津さんはこの筋を研究していたようですが、それが完全に一から発見したものなのか、コンピューター対策の情報収集過程で知った手を試したのかははっきりしていません。まあ、そこを追求することにそれほど意味があるとも思えませんが。

 投了の理由を説明する中で、巨瀬さんはだいたい以下のようなことを言っています。「貸し出したプログラムを、棋士が自分の能力を高めるために使うのではなく、プログラムのいちばん悪いところを引き出すために利用された。それは何の意味もないプログラムの利用法だ」と。

 そして「アマチュアが先に指してすでに知られているハメ手を、プロは指さないだろうと思っていた。そんなことをするようでは、プロの存在意義にかかわる」といったようなことを言っています。

 これは若干、ディープな将棋ファンでない人間にとってはわかりにくい感覚です。戦術なんて、誰が最初に指そうがたいした問題ではなく、優秀な戦術なら結果的に誰の真似だろうと採用されるのが当然では? プロかアマチュアかに、そこまで大きな差があるのか? といったような。

 しかし(特に少し前までの)将棋界にはそういう「美学」がたしかにありました。

 漏れ伝わってくる「阿久津さんは、自分が研究している戦法が生放送企画で知られてしまったことを気にしていた」というエピソードからも、阿久津さん自身もそういった意識を持ってはいたことが窺えます。

 戦法がいかに広く知られようが、ルール上開発者はその時期にはプログラムをもう改良して対応できないのですから、対局上阿久津さんが不利になることはありません。気になるとすれば「ハメ手と形容されるような戦術、しかも先に誰かが披露している手を用いるのは不名誉である」という意識を阿久津さんも持っていたからなのでしょう。

 それはプロが間違いなく、絶対的な格差を持ってそれ以外の(トップのアマチュアや奨励会員やプログラム)より強い、と誰もが確信していた時代の、「プロ棋士のあるべき美しい像」であり、巨瀬さんが、その道を断念したために美しいまま持っていた、断念したからこそより美しくなった像かもしれません。

 そして阿久津さんは、おそらく躊躇しましたが、その美を守るよりは勝つ選択をしました。それこそがプロの存在意義である、という見方もあるでしょう。

 現在の電王戦は、イベントとしてずいぶん肥大化していて、協賛の会社がいくつもあり、放送では計算されたCMやゲストの予定がびっしり入っています。そういった中で、開始直後に(やむをえない事故以外の理由で)投了してスケジュールをぶち壊しにできるような「大人」はまずいないでしょう。

 今日になってやっと、あの巨瀬さんの発言は「無難な大人」の言葉ではなくて、プロ棋士に(気軽な外野の眼から見れば)過剰なほどの美を見ていた人のものだったのだ。それだからそこで投了することができたのだ。と思うわけですが。

 巨瀬さんの投了を(その後の発言などはともかくとして)、将棋の言葉は「美しい」としか処理できないでしょう。投了することはプレイヤーだけの権利であり、いさぎよく投了することこそ、人間にしか理解できない「美」であると主張してきたのですから。

 もちろん、ルールに則って勝つ可能性がもっとも高くなるように行動した阿久津さんは、その点で間違ったことをしたわけではありません。ある種の幻想を持った無責任な人たちから、強いだけではなく、さまざまな美学というハンデをともなってさらに強いことを求められていた、という点以外では。

「美しさ」がきわめて主観的なものであることに無自覚でいるとき、「将棋が強い」ことは「美しい将棋」であることと等しいと観念されます。ほぼこのとおりのことを、名人挑戦者の行方さんが言っています。たしか「美しい将棋でなければ強くない」というような言葉だったでしょうか。

 美しい将棋は強い将棋と同義か、と尋ねると、彼は決然と「将棋に美しさを感じていない人は将棋には勝てない」と言った。

 

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 さて。美しさ、ゲームにおける美しさとは、どういうものなのでしょうか。人間が盲目的に信じてきた、見慣れて都合のよい虚構にすぎないものなのでしょうか。

 電王戦前の記事にこういうものがありました。今名人戦を戦っているもう一方の当事者であり、名人であり、将棋のプロ棋士のシンボル的な立場になってしまってい人の言葉です。

人間の思考の一番の特長は、読みの省略です。無駄と思われる膨大な手を感覚的に捨てることで、短時間に最善手を見出していく。その中で死角や盲点が生まれるのは、人間が培ってきた美的センスに合わないからですが、コンピュータ的思考を取り入れていくと、その美意識が崩れていくことになる。

今まではこの形が綺麗だとか歪だと思われていた感覚が、変わっていく……

 

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 私はこれを、美とは主観的で変動するものであることの自覚を迫られる、と解釈していたのですが。果たして真意はどうだったのでしょう。

悪霊と幽霊

 私は流浪の悪霊憑きだ。もとより私の種族は長らく人類居住地の端に間借りの身だが、この街ではそんな身元さえもないよそ者だ。

 樹上都市の周辺にはオークの襲撃を逃れてきた難民たちが身を寄せ合っていた。その一人は、その辺で集めた材料を持ち寄ると、旅に出て以来の美味な料理を振舞ってくれた。
 オークは都市の間近まで出没しており、雇われ仕事も傭兵めいたものが多かった。気がつけば私は陰謀と種族間紛争の渦中にいて、事態が一段落した時には、妖精にも若干の好意的な知人を得ていた。知り合った人々に多少の義理を感じ、引き続きオークとの戦闘に向かおうとした私を、悪霊は止めた。
『しばらくさ、別の場所に行ってみない?』
「なぜだ。ここは暮らし良いところだぞ。戦いの行く末も見届けたい」
『うん。でも君の単独任務はさ、もうちょっと腕を上げたほうが成功率が上がると思うんだ。今のまんまあの連中に突撃しても、死ぬよ』
「そうだろうか」
『それにちょっと気分転換もいいよ』

 悪霊の勧めるアントニカへ向け、古代魔法の移動ポータルを潜った。空が青い。平原に陽光がそそぎ、整備された灌漑水路の水が湖畔の水車に落ちる。
『ね。いいところだろ』
「のどかな景色だな」
 ケレティンでは、頭上は常に巨樹と霧に覆われ、空は見えなかったのだと、その時気づいた。

 人類の古くからの居住地域は、犬人との紛争やお決りの問題はあっても、おおむね後にしてきた土地より平和なようだった。夜は空に星が輝き、街に近い灯台はこんな時代にも灯火を絶やさない。
 私はしばらく、見通しのよい場所で犬人や追いはぎ相手に弓の腕を磨き、狩りをして過ごした。
 困ったのは、この広い平原には商人が少ないことだ。
「妖精の土地は便利だったな。どこにでも銀行があって」
『あれは、ありすぎたと思うよ。君の旅行装備が貧弱なんだなあ』
「そうか?」
『そうだよ。ほら、採集袋からイチゴがあふれたじゃん』
「仕方ない」
 私はそれしか持たずに旅に出たのだから。

 翌日、悪霊が行けとうるさいので銀行へ出向くと、立派な旅行鞄が幾つも、私宛に届いていた。
『これで足りるよね』
 多すぎる。
「これをどうやって調達した?」
『うん。ちょっと知り合いに』
「詐欺を働いたのか?」
『まさか。それどころか、完全に人々の善意に基づいてやってきたんだよ。ユウジョウ!』
 私はまだ胡散臭い気分だった。
『気になるならさ、君の将来狩る毛皮がカタになってると思ってよ』
 喉から手が出るほど、欲しい装備だった。これまでの何倍も物資を持ち歩ける。
「では、もらっておくか」
 悪霊はさほど得意がりもしなかった。私はいぶかしんだ。これはいったい、どんな詐欺の一端だろうかと。


 私がポータルを抜けてはじめて見たアントニカの村、水車小屋が印象的な平和な土地は、ウィンドストーカー高地といって、村もその名前で呼ばれていた。高台に、その由来と思しい人、ホリー・ウィンドストーカーの墓があった。
『おおう……。じゃあ彼女も死んだんだな』
 悪霊が、感慨深げに言った。

「知っているのか?」
『まあね。五百年前、ケイノス近辺にいた冒険者で、彼女を知らない奴はいなかった。ドルイドが街の衛兵虐殺で知れ渡るより前に、彼女より人々の恨みを集めたドルイドはいなかっただろうなあ』
「何をしたのだ。その人は?」
『どんな犬人よりたくさん、若者を殺したよ』

 私はたじろいだ。後世に名が残る人が、残虐であったり、結果的に多くの敵を殺していたりする例は、あるには違いないが。
「何か理由があったのだろう?」
 悪霊が笑った。不吉な響きがした。
『そうだなあ。物事には必ずそれぞれの立場があるから、説明しないのは公平じゃないね』

『彼女は献身的な、女神チュナレと嵐神カラナの眷属を保護することに熱心なドルイドだった。狼や熊を傷つける者に容赦しなかった。一方当時、ケイノスの周辺にはおおぜいの住む家もお金もない若者たちがいた。君のような人たちがね。ケイノスの治安を守る当局は、彼らを犬人との戦いに利用しようとした』

『犬人の暗い洞窟へ降りて行く度胸と装備のない連中は、まず外をうろついている犬人やアンデッドを始末して細々と暮らしていた。彼らはおおぜいだったから、犬人を狩り出すのも奪い合いのような有様だったよ。でなければ、熊猟に手を出すか。当時も、いい毛皮は高値がついたからね』

『といっても、彼女の前で獣に手を出す者はいなかった。彼女が、獣と戦う者を見れば即座に殺すことは、広く知れ渡っていたからね』
「神々が実に座ました時代の崇敬とは、我々の想像を超えるな」
『いやいや。あの頃の誰もがそんなだったと思わないでほしいなあ。そこまでしたのは彼女くらいだ』

『個人的によく知っていたドルイドは、狩りの肉で料理をするのが好きだったよ。聖域の中では、敬意のある人たちは獣を傷つけなかったりしたものだけど、ふつうその程度だね。彼女はきっと超強硬派に属してて、その中でも筋金入りのカツドーカだったんだろうなあ』

『彼女のすごいところはね、自分から獣に手をかけた者だけじゃなく、獣と戦っている者なら誰でも、つまり自衛している者まで容赦しなかったことさ。戦いで傷ついて弱った人が、休もうと座りこむ。狼はそういう弱った相手を見つけると当然襲いかかる。必死に逃げようとすると、ホリーに出あうんだ』

『ホリーは事情を斟酌しない。しかも、当時ケイノスでくすぶってるような連中の敵う相手じゃなかった。彼女の声を聞いた瞬間に、そいつは死ぬんだ。これで説明になったかな?』
 私はなんとも、答えようがなかった。私は悪霊憑きだ。私が殺されても、殺害者を裁く法はなく、復讐する親族もいない。

 数日後、村からは少し離れた丘陵地帯で、幽霊に遭遇した。その辺りにはアンデッドはほとんどおらず、珍しいことだった。
 白いおぼろげな影は「狼を……熊を……」と呟きながら、私に襲いかかってきた。私は必死に両刀で振り払った。幽霊はあっけなく消えて、腕輪が地面に落ちた。ウィンドストーカーの名が刻まれていた。

「彼女だ……。死に切れないでいたのか」
『そうみたいだね。……何だかなあ』
 悪霊の声は沈んでいて、私は意外に思った。
「嬉しくはないのか? こんな形でも復讐を遂げたとは思わないのか?」
『うん。そう思う人はいるだろうね。まるでそれを狙って、誰かが彼女をここに幽霊にして置いたみたいだとは思わないかい?』
「それは穿ちすぎた見方というものではないか?」
『そうかもしれないけどね』
 悪霊はその後、しばらく不機嫌で、口をきかなかった。私には悪霊の感情が理解できない。

私は悪霊に憑かれた

 私は悪霊に憑かれた。
 悪霊憑きとなった者は、家名を失い、旅に出ねばならぬ定めである。私はこの風習を愚かな迷信と思っていた。しかし、自ら憑かれてその意味を理解した。この悪霊はうるさい。
『昔、ケイノスの港から船に乗ると小さな島に通りかかって、目的地と間違えて無知な旅人が降りたもんだよ』
『昔クナークと呼んだ大陸には竜の住む山があって、そのいちばん偉い竜の横には、今は幽霊の竜がいるらしいんだけど、知ってる?』
 平凡な生活をしながらこんな話ばかり毎日聞かされたら、早晩気が狂うだろう。私は船に乗って、最初の港で降りた。静かな海岸から進むと、妖精の住む土地だった。

 私はしばらく妖精の雑用を引き受けて暮らした。
「悪霊よ、この魚はどこで釣ればいいのだ?」
『どこだろなあ。海?』
「魚がいないぞ」
『うーん。この間も、魚だけ遠くだったんだよなあ。そのうち見つかるよ、きっと』
 はるか神々の領界の最新事情を知っていると主張する割に、その知識は役に立たない。

 ある時、遠くへの使いを引き受けて丘を二つほど越えた私は、巨大な木々の間に浮かぶ都市を見た。
『わあー。ケレティンだ。えっ、この上だけでテレポーターが何ヶ所もあるの? 過保護じゃない? そうそう。ここは今はこうだけど、昔はウッドエルフの街でね』
「今親切な妖精がそう教えてくれたな」

 この街にいれば、当分生活に困らない仕事がありそうだ。
「代行墓参りか。ここから降りるのが近道だな」
『待っ!!!』
「何だ?」
『落ちると死ぬよ』
「死なないだろう」
 私は飛び降りた。
『死ぬって!……ゆっくり落ちてる』
「我々以外にもこの特徴を持つ種族は多いぞ? 知らないのか?」

『嘘だ……。エルダイトにフリーフォール……。ありえないよ!』
「何を混乱しているのか知らないが、これは我々の言葉で《落ちるも雅》というのだ」
『だって……生まれた直後暗くて落下……。ブラックパウで落とし穴に落ちて……。氷の床で滑って落ちて……』
 悪霊がこうも悲しむのは初めてだった。

『とにかく! 五百年前のエルダイトはね! 落ちたら死んだんだよ!』
 そうか。我々は正しい進化を辿ったということか。ついでに、この悪霊がまったく無知なことを、私は確信した。憑かれるなら、もっと尊敬できる性格の、かなうなら役に立つ知識を身につけた悪霊がよかったのだが。

EQ2クエストログを移動しました

これまでと相当テイストが変わってくるため、分離しました。

移動先は以下。


The Skeletal Jesters' Silly Ditties

 

EQ2のゲーム内情報とあまり関係のない、妄想的な記事は、引き続きこちらに投稿する予定です。