不気味の谷に面して

 もう一度、前記事の終わり近くに引用した言葉から、はじめます。

美しい将棋は強い将棋と同義か、と尋ねると、彼は決然と「将棋に美しさを感じていない人は将棋には勝てない」と言った。

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 ややメタな表現をすると、巨瀬さんの投了を強く「美しい」と感じ、そう発言する傾向は、かなり将棋の強い層ほど高くなるのではないかと思っています。そしてそれは、(去年の話になってしまいますが)森下さんの「継ぎ盤」(対局用とは別に検討に使うための盤)使用可ルール提案を聞いた瞬間に「それは将棋ではない!」と反応した層と、それなりに重なるのではないかと。

 つまり、将棋に美しさを感じるほどに、明文化されたルールではない将棋感覚のすみずみまでが皮膚に染み込むほど、将棋を真剣にプレイし、強くなった人たちが、その層だろうと想像するからです。

 私はかなり将棋(とそのファン)を鑑賞経験を積んでいるつもりですが、そういった方たちの「これが将棋だ」「これは将棋じゃない」という感覚は、まったく共感的な理解はできません。観測経験から、そういうものがあるのだろうな、と想像するだけです。

 そう考えると、あの投了に共感できない「一般の人」がいる、ということも、理解できなくもないのです。きれいに編集されたPVのストーリーで「将棋に多く のものを賭けた人なんだろうな」と理解し感動することは簡単でも、勝ち負け以外の「何かよくわからないもの」の価値って想像しにくいものですよ……。

 少し経ってしまうと、巨瀬さんは(その意図があったとは思いませんが)あの投了によって、「あの局面からプロ棋士が負ける」という人間の棋士にとってはお そらく最悪の不名誉からプロ棋士を救った側面もある気がしてしまいます。実際、事前練習では類似局面(おそらく本番ほど決定的に有利なわけではない方向の類似局面でしょうが)から複数回逆転負けしているという話ですし。

 

 さて。ようやくそろそろ、本題です。
 将棋界は最近(渡辺さんとBonanzaが対局してから、まだ十年経っていません)やっとほんもののコンピューターを脅威として認識しましたが、この世界ではずっと昔から、「コンピューターのような」という形容が使われてきました。「天才」と同じくありふれた棋士の形容として。

 だいたい、私たちがこの言葉ですぐ想像するような、電源式のコンピューターが一般に知られるようになったのは第二次世界大戦の時代で、今年は戦後七十年なのですから、新しいようでなかなか古い言葉なのです。

 一般的な用法がそうであるように、将棋界での「コンピューター」という形容も、基本的に若くて頭がよくて、しかしどこか期待される常識的な人間らしさに欠 けたところがある、というニュアンスを持って使われているように見えます。時代ごとに、新しい棋士が「コンピューター」世代と言われてきました。

 何度も繰り返し、「コンピューターの如き」常識と将棋の美の感覚に欠けた若者たちが「棋士」になり、いつの間にか違和感なく「ふつうの棋士」になっていった。とても大雑把に要約すれば、それがこの数十年の将棋の歴史だといってもいいくらいに思えるほどです。

 

 その「違和感のある新しいもの」の最大の波が、いわゆる「羽生世代」です。彼らはプロ将棋界に登場したころ、「恐ろしい子どもたち」とか「チャイルドブラ ンド」と(コンピューターよりは独自性のある)形容をされたくらい、異質な、その頃の将棋の常識や美とかけ離れた存在でした。

 現在の私たちからすると、その違和感はなかなか理解しにくいのですが、当時の観戦記や創作作品を読むと、非常に大きな衝撃、一部の層にとっては生理的に受け入れがたいほどの違和感があったのだと想像するしかありません。

 将棋を題材にしたコミックの古典的名作『月下の棋士』、あの主人公が羽生さんをモデルにしていることはよく知られていますが、今はじめて読む人は「ぜんぜん似て ないじゃん」としか思わないのではないでしょうか。ほかの実在棋士をモデルにした登場人物は今読んでもちゃんと似て見えるのが不思議なくらいに。

 もちろん、当時のコミックの主人公として受け入れられるキャラクター造形といった事情はありますが、当時の彼は、あの主人公を作家に想像させ描かせてしまうくらいに、衝撃的で挑発的な存在に見えたのでしょう。

 もちろん羽生世代が現れる前から、変化の傾向ははっきりあったわけですが、この世代以降、将棋のプロというのは「博打打ちの如き勝負士」ではなく「研究 者」、ある種の「求道者」である、というイメージが一般的になりました。集団での研究はこの時代にはじまり、研究内容はよりオープンになりました。

 当時彼らの、一つのゲームの勝敗の外では遺恨や対立関係を持たない態度は、そういうどろどろした人間くさい勝負こそが、勝負と観戦の楽しみだととらえる人たちからはずいぶん否定的に見られましたが、今では当たり前の礼儀正しさと見られることのほうが多いように思いいます。

 今となっては、彼らこそが将棋の、あるべき美、規範そのものになってしまっています。

 いつの間に、そんなことになってしまったのでしょう。もちろん彼らの 周囲で将棋界だけが変わったのではなく、彼らもまた変わりました。違和感なく和服が似合うようになり、あまり角のある言葉は言わなくなりました。

「チャイルドブランド」から「安心して見られる将棋を指す落ち着いた人たち」への変化。その間、将棋界の周囲で一般社会も変化し、見る側の社会と世代もまた変わっているのですから、当然というべき なのかもしれません。

「恐るべき子どもたち」さえも、「将棋」というものに呑み込まれ、消化されたのだ、と考えることも可能かもしれません。

 

 そういうことをぼんやり考えるとき、これは正しい用法ではないでしょうが、将棋界はかつて少なくとも一度「不気味の谷*1を渡ったことがある、と考えること もできるのではないか。と私などは思ってしまうのです。

 もちろん、ほんものの人間とコンピューターの差は、もっと大きく、決定的なものなのかもしれませんが。