美しさと強さが対立するとき。あるいは、水平線のこちらに現れたもの

 電王戦のルール、ルールに則って戦うこと、そして今年は何度も聞くことになった、私も何度か言及して来た、ゲームにおける美しさ、ということについて。

 電王戦が団体戦として形を整える中で二年めに固まった、実戦と同じプログラムを事前に提出し、プロ棋士側が一方的にそれで研究する一方、プログラム開発者側は一切改良することができない、というルールは、当初から非常にプロ棋士側有利な規定、と見られて来ました。これで勝てないはずがない。とも。

 一年めについていえば、事前貸し出しは任意のもので「勝負だから」と断った開発者もいましたし、そのプログラムと対局する棋士は、他のプログラムを借りて練習環境としたようです。非人間との対局経験がほとんどない棋士にとってはそれでも役に立つだろう、ということで、今から見ればゆるい世界です。

 しかし、一年め二年め、棋士側で勝つことができたのはそれぞれ一人だけでした。そして勝ったのはどちらも、貸し出されたプログラムを他の棋士数倍~十倍以上の対局数・時間を費やして研究し、その能力や癖をよく掴んだ、むちゃくちゃに研究熱心な若手の棋士でした。

 貸し出しを受けても、それほどプログラムとの研究に時間を使わなかった棋士もいて、それはそもそもコンピューターとの対戦に向いた人選ではなかったのではないか、あるいはせっかく有利に利用できるはずのルール上のアドバンテージをまったく活かしていないではないか、という批判がありました。

 そういった過程を経て、今年プロ棋士側から選ばれたのは、全員コンピューターにアレルギーがない程度に若く、充分な勝率があって、戦術研究に向いていると思われた人たちだけになりました。前回までとは違い、対局予定者以外の協力も含めた集団での研究もだいぶ行われたようです。

 今までそれをやらなかったほうがおかしいのでは、という意見もあるでしょうが、それまで棋士側ではそこまでコンピューターを「ほんとうに強い」相手として認識できていなかった、ということでしょう。それまでの連敗が、ようやくルールを万全に活かしてより多くの勝ちを狙う方向に向かわせたのです。

 しかし、そうやって真剣に研究してみたとき、将棋プログラムはおおかたの予想を超えて強くなってしまっていました。事前研究の様子はドキュメンタリー動画になっていますし、対局後のインタビューでもそれぞれ答えていますが、これだけのプレイヤーたちが、一割~二割くらいしか勝てなかったのです。

 ディープな将棋(棋士)ファンがもっとも衝撃を受けたのは、この辺ではないかと思います。この棋士たちが、現在最高レベルの人間のプレイヤー(シンボル的に羽生さん、と代入してもいいでしょう)を、一方的にここまで研究できたとして、勝率がこれほど低いと想像できるでしょうか?

 勝つ可能性を上げるには(参加した棋士はそれ以外の選択肢が意識できない心理状態だったでしょう)プログラムの得意でない局面に誘導する、という程度ではもう充分ではなく、そのプログラムが決定的な悪手を、高い再現度で指す形を発見するしかない、という雰囲気になるのも仕方なかったのでしょう。

 プログラム側も、そういった研究に負けることを避けるために、指し手にランダム性を持たせていますから、「本番でダイスを振ってどちらの目が出るか」でほとんど勝負が決まる、というようなことになりました。生放送中継では「どこまで研究手順」といった言葉が公然と連呼されました。

 この光景が将棋中継を見慣れたファンにとって不思議に思えるのはつまり、ふつうの(人間棋士どうしでの)対戦では「完全に事前研究の手順だけで勝敗が決まる」ことを、面白くない、軽蔑すべきことと見る傾向が一般にあるからです。頭でっかちな若者の指す、つまらない、美しくない将棋、と捕える(比較的昔からのファン層の)観戦者は多いようです。

 過去二年、一勝だったのに対して、今年は三勝二敗と勝った、と数字上はなります。しかしその数字は、プログラムがはるかに格上である、と認識した棋士側がルールを最大限活かした戦術を選んだ(本番一回限りのダイス目の)結果得たものであって、むしろプログラムの強さが強調されたように思います。

 さて。投了と美しさ、ということについてです。今年の第一局では、プログラム側が必敗の局面になっても投了しない、ということについてずいぶん批判があったようです。中継でそういった指摘が強調されて映ったためにそう見えた、というだけかもしれませんが。

 もともと、人間対コンピューターの対局では、一方的な展開になりやすく、いわゆる白熱した戦いや、人間が名局と認識するような棋譜が生まれにくい、と言われています。

 人間よりも相対的にミスが少ないプログラムは、お互いに拮抗した局面を長引かせず有利にしてしまう、ということもあります。

 また、コンピューター側が不利な局面になったとき、プログラムは決定的に不利な瞬間を先延ばしして計算範囲から見えなくする、しかしその瞬間を回避するためにはまったく役立たずにかえって事態を悪くするような手を選んでしまう欠点があります。いわゆる「水平線効果」です。水平線の向こうにあるものは見えない、というわけです。悪い未来を、計算可能な範囲に見えない水平線の向こう側に追いやってしまった手が、プログラム的には「より良い手」に見えてしまうことは、単なる一つ二つの悪手などよりはるかに改善が難しい問題のようです。

「粘っていれば、いつか逆転のチャンスがあるかもしれない局面」なのか「この方向で粘っても勝ち目はまったくないから、悪手の可能性があっても逆転できるかもしれない勝負手を指すほうがましな局面」かを判断する能力は、まだ人間のほうがはるかに高い、ということでもあります。

 そのため、将棋プログラムが負けるときはしばしば、だらだらと不利な局面をさらに不利にしながら引き伸ばすだけ引き伸ばし、人間的視点で見ればわざと美しくないログを生成して負ける、という展開になります。

 たしか、第一局のプログラム製作者の方は、そのような負け方がプログラムの特徴であるから、開発者はプログラムを無視して投了する権限があるけれども、投了せずに指しつづけさせる、と事前にオンライン上で表明し、対局相手の棋士にもそう断っていたはずです。しかしそれでも批判されました。

 いさぎよく投了することは将棋の美学である。といった言葉も聞かれたと思います。実際、人間どうしの対局では「形作り」といって、負けを自覚した側が、一手違いで勝てたような「整った局面」を作って投了する、という習慣もあります。

 現在のところ、「いさぎよく投了する」「美しい投了局面を作る」といった機能を開発された将棋プログラムは一般に知られていません。そんなことを考えても、まず強くなる役には立たないので、当然ともいえるでしょう。プログラムが対応しにくい分野ということで、開発者に投了の権利が与えられています。ちなみに、プログラムどうしの対局するコンピューター将棋選手権では開発者に投了権限はありません。

 投了は人間にしか理解できない美であるといっても、いつ投了するのが正しく、美しいか、さまざまな意見があり、結論の出ない議論があります。美はけっきょく、主観的なものだからです。「投了は最大の悪手である」という言葉も言われます。

 つい先日の名人戦第一局では、行方さんが名人戦最短記録の六十手で投了しました。局面は不利でしたが、決定的な負けの道筋はまだなく、一般論でいえば、まだ逆転の可能性が充分あるはずでした。作戦がことごとく裏目に出ていた、そして相手が羽生さんだった、という以外理由のない投了でしょう。

 この投了に対しては、「この程度でやる気をなくして投了しているようでは、勝てるものも勝てないのではないか」と内心思った人は多いでしょうが(口の悪さを競う掲示板のような環境では実際言われたかもしれませんが)、表立って非難されはしませんでした。いさぎよさを賞賛もされませんでしたが。

 そして今日、「AWAKE」の巨瀬さんは、21手で投了しました。「AWAKE」は指しつづけることができ、もしかしたら(一割かもっと低いとしても)逆転する可能性があったかもしれませんが、決定的悪手に誘導され、それを回避できなかった時点で、開発者の権限で投了したのです。

 巨瀬さんは元奨励会員(真剣にプロ棋士を目指して養成機関に在籍した人)です。事前にも、その点に注目が集まりました。(プログラムどうしの戦う)電王戦トーナメントで優勝したときのインタビューでは「将棋プログラムがプロの能力向上の役に立てばいい」という趣旨のことを聞いた記憶があります。

「ずいぶんきれいな言葉を使う、大人な対応の人だな」と思ったものでした。しかしそれは、ちっともそういう意味ではなかったのでしょう。

 プログラムにその決定的悪手を指させる筋は、各所の観測によれば過去に別の将棋プログラムへの対策研究として発生したものらしく、一般に公開された局面としては、いわゆる「百万円チャレンジ」の生放送企画で多くのアマチュアが使ってよく知られるようになりました。
 その企画や放送より早くから、今回AWAKEと対局した阿久津さんはこの筋を研究していたようですが、それが完全に一から発見したものなのか、コンピューター対策の情報収集過程で知った手を試したのかははっきりしていません。まあ、そこを追求することにそれほど意味があるとも思えませんが。

 投了の理由を説明する中で、巨瀬さんはだいたい以下のようなことを言っています。「貸し出したプログラムを、棋士が自分の能力を高めるために使うのではなく、プログラムのいちばん悪いところを引き出すために利用された。それは何の意味もないプログラムの利用法だ」と。

 そして「アマチュアが先に指してすでに知られているハメ手を、プロは指さないだろうと思っていた。そんなことをするようでは、プロの存在意義にかかわる」といったようなことを言っています。

 これは若干、ディープな将棋ファンでない人間にとってはわかりにくい感覚です。戦術なんて、誰が最初に指そうがたいした問題ではなく、優秀な戦術なら結果的に誰の真似だろうと採用されるのが当然では? プロかアマチュアかに、そこまで大きな差があるのか? といったような。

 しかし(特に少し前までの)将棋界にはそういう「美学」がたしかにありました。

 漏れ伝わってくる「阿久津さんは、自分が研究している戦法が生放送企画で知られてしまったことを気にしていた」というエピソードからも、阿久津さん自身もそういった意識を持ってはいたことが窺えます。

 戦法がいかに広く知られようが、ルール上開発者はその時期にはプログラムをもう改良して対応できないのですから、対局上阿久津さんが不利になることはありません。気になるとすれば「ハメ手と形容されるような戦術、しかも先に誰かが披露している手を用いるのは不名誉である」という意識を阿久津さんも持っていたからなのでしょう。

 それはプロが間違いなく、絶対的な格差を持ってそれ以外の(トップのアマチュアや奨励会員やプログラム)より強い、と誰もが確信していた時代の、「プロ棋士のあるべき美しい像」であり、巨瀬さんが、その道を断念したために美しいまま持っていた、断念したからこそより美しくなった像かもしれません。

 そして阿久津さんは、おそらく躊躇しましたが、その美を守るよりは勝つ選択をしました。それこそがプロの存在意義である、という見方もあるでしょう。

 現在の電王戦は、イベントとしてずいぶん肥大化していて、協賛の会社がいくつもあり、放送では計算されたCMやゲストの予定がびっしり入っています。そういった中で、開始直後に(やむをえない事故以外の理由で)投了してスケジュールをぶち壊しにできるような「大人」はまずいないでしょう。

 今日になってやっと、あの巨瀬さんの発言は「無難な大人」の言葉ではなくて、プロ棋士に(気軽な外野の眼から見れば)過剰なほどの美を見ていた人のものだったのだ。それだからそこで投了することができたのだ。と思うわけですが。

 巨瀬さんの投了を(その後の発言などはともかくとして)、将棋の言葉は「美しい」としか処理できないでしょう。投了することはプレイヤーだけの権利であり、いさぎよく投了することこそ、人間にしか理解できない「美」であると主張してきたのですから。

 もちろん、ルールに則って勝つ可能性がもっとも高くなるように行動した阿久津さんは、その点で間違ったことをしたわけではありません。ある種の幻想を持った無責任な人たちから、強いだけではなく、さまざまな美学というハンデをともなってさらに強いことを求められていた、という点以外では。

「美しさ」がきわめて主観的なものであることに無自覚でいるとき、「将棋が強い」ことは「美しい将棋」であることと等しいと観念されます。ほぼこのとおりのことを、名人挑戦者の行方さんが言っています。たしか「美しい将棋でなければ強くない」というような言葉だったでしょうか。

 美しい将棋は強い将棋と同義か、と尋ねると、彼は決然と「将棋に美しさを感じていない人は将棋には勝てない」と言った。

 

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 さて。美しさ、ゲームにおける美しさとは、どういうものなのでしょうか。人間が盲目的に信じてきた、見慣れて都合のよい虚構にすぎないものなのでしょうか。

 電王戦前の記事にこういうものがありました。今名人戦を戦っているもう一方の当事者であり、名人であり、将棋のプロ棋士のシンボル的な立場になってしまってい人の言葉です。

人間の思考の一番の特長は、読みの省略です。無駄と思われる膨大な手を感覚的に捨てることで、短時間に最善手を見出していく。その中で死角や盲点が生まれるのは、人間が培ってきた美的センスに合わないからですが、コンピュータ的思考を取り入れていくと、その美意識が崩れていくことになる。

今まではこの形が綺麗だとか歪だと思われていた感覚が、変わっていく……

 

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 私はこれを、美とは主観的で変動するものであることの自覚を迫られる、と解釈していたのですが。果たして真意はどうだったのでしょう。